PostScript

2007/02/18

PostScriptはスタックベースの言語らしい。

この手の言語は比較的種類が多く、親インタプリタな簡易言語みたいなものではよく採用されている方式だ。だが、実際にこの手の言語でまともにプログラムを作ることになるとは思わなかった。

「主筆」で印刷できるようにするにはPostScriptを生成できるようにしてやらなければならない。だが、単純にPostScriptを生成するとは言っても、プログラムでPostScriptのプログラムのロジックを考えて生成することはできないから、あらかじめ俺がPostScriptのプログラムの雛形を考えておいて、その雛形に印刷すべきデータを設定して、それを出力するという形を取らざるを得ない。

だから今俺は、印刷するデータをプログラム中に埋め込む方法や、設定可能な値の指定方法などを考えながら、PostScriptでプログラムを作っているのだ。

だが、これがなかなか大変だ。なにぶん、言語使用自体があまり人様が直接記述することを考慮して作られているものではない。そのため直感的にロジックを組むことができず、ひどく進捗が悪い。

その上、このところ本業の方がやたらと忙しく、まったく作業を進めることができなかった。何せうちに帰ってくる頃には12時を回っているし、ひどいときには始発で帰ることになる日もある。これでは他のことは何もできない。洗濯すらできない。

しかしこの激務もようやく脱したようだから、これからは少しずつでも作業を進められるようになるだろう。

更新履歴

2007/02/04

主筆」をバージョンアップすると、その都度更新履歴を書くようにしている。

別に、大した意味があるわけではない。だた、他のソフトでも大概にして更新履歴が書いてあるから、俺もそれに合わせているだけだ。俺自身としては、ほとんど何の意義も認めてはいないのだが。

しかし、この更新履歴という奴は、毎回書くときに結構苦労させられる。なぜならば、前の版からどこがどう変わったのが、案外覚えていないからだ。特に、バグの修正内容については、ほとんど何も覚えていない。

おそらく原因は、俺は常に作りかけの最新版を見ているからなのだろう。つまり、俺は今目の前にあるものを見慣れてしまっているから、前の版からの変更点に関する記憶が薄れてしまうのだろう。

この現象に対する対処法としては、ごく単純に、変更する都度メモを取っておけばいいだけなのだが、それは面倒だ。そもそも、こんな誰も使わないようなフリーソフトの更新履歴など、一体誰が見るというのだ。俺だって見ない。そんな、存在意義のほとんどない情報のために、なにがしかの手間をかけるのは、あまりにも馬鹿げている。

しかし、そうだとしたら、更新履歴を書くこと自体が馬鹿げているし、もっと言うなら、こんなくだらないものを作ることそのものが馬鹿げているといえる。

つまりここに、一つの葛藤を見ることができる。

「更新履歴を書くために、変更点のメモを取る」←→「主筆を開発する」。どちらも無意味な馬鹿げた行動だが、一方はやりたくなく、かつ、もう一方はやりたい。

俺の人生には、こういった矛盾がいくつかある。その中の一つに、破れたパンツを履くか否かという問題がある。

パンツというのは、ズボンの中に履くものであり、一般的に人に見せるものではない。むしろ、見せない方がいい。だから、パンツが破れていようが、いなかろうが、基本的には人にばれることはない。少なくとも、自分から人に向かってパンツが破れていることを告白するか、あるいは、パンツの破れているところを人に見せつけない限り、ばれることはない。

だから、破れたパンツを履いていたところで、社会道義的に問題となることはない。かつ、一枚のパンツを、できるだけ長く履き続けていた方が安上がりだ。だがしかし、何となく破れたパンツは履きたくない。

ここで一つの葛藤が生じる。

先ほどの、社会道義的な考えを延長すれば、パンツは履かなくても良いと言うことになる。つまり、たとえパンツを履いていなかったとしても、ばれることはないのだから、はかなくても良いと言うことになる。そして、パンツを履くことそのものをやめてしまえば、生活にかかるコストを削減することができる。

とはいっても、何となくパンツは履いていたい。しかし、破れたパンツは履きたくない。警察のやっかいにならない範囲内のことであれば、極限まで生活費を切りつめたい。だが、パンツは履いていたい。

結局、破れたパンツは履くべきなのか、履かざるべきなのか。

これについては、いくら考えたところで答えは出ない。どこかで線を引くしかないのだ。つまり、常に新品のパンツを履くようにするか、繊維の最後の一本になるまで履き続け、その後は一切パンツを履かないようにするか、その間のどこかで線を引かなければならないのだ。

俺に人生には、こういった葛藤、あるいは矛盾と言ってもいいかもしれないものが、いくつかある。普段は、出きる限り合理的に生きようとしてはいるのだが、しかし生きていることそのものが非合理の究極である都合上、人生そのものを完璧に合理化することはできない。

人生とは気持ちの悪いものだ。